よこはま若者サポートステーション
よこはま若者サポートステーションのスタッフブログです。 サポステの近況はここでチェック! (公式HP http://www.youthport.jp/saposute/)
プロフィール

サポステ

Author:サポステ
15歳~40歳までの就労支援施設です。個別相談を中心としながら、一人ひとりの「働くまでの道のり」を一緒に考えます。多くの機関や団体(人)との関わりの中で皆さんが社会の中で自分らしく生きていけるよう私たちは皆さんの活動を応援しています。

リンク

このブログをリンクに追加する

最近の記事

カテゴリー

天気予報


-天気予報コム- -FC2-

ブログ内検索

RSSフィード

カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -

月別アーカイブ

FC2カウンター

スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

無関心でいることの罪深さ
こんにちは。凸です。
秋らしさが増え、それとともに食欲が増している今日この頃。皆さん、いかがお過ごしですか?

今日は「無関心でいることの罪深さ」というタイトルをつけました。
前回のブログでお話した、「虐待」にも繋がる話でもあります。虐待というと、一番メジャーなのは、直接的な暴力、肉体を傷つけたり、言葉を使って本人を精神的に追い詰めるものを思い浮かべます。

一方で、「何もしないことによる」暴力もあります。それが「ネグレクト」、育児放棄という言葉です。
「誰も知らない」という映画でも、母親が家出をしたアパートに子どもだけが暮らし、それがやがて崩壊していくという物語でした。

私が担当している利用者さんの中にも、それと似たような状態で育ってきた若者がいます。
様々な事情があり、途中から生きるための援助以外は一切なかった状態でした。また、生きること自体、危機にさらされるときもあります。
家族に様々な苦労があり、精神的にも経済的にも追い詰められた過程は、悲惨の一言であり、一方的に親を悪者にすることもできません。しかし、彼らの周りには行政の関わりが長い状態あったのにも関わらず、そこまでの状態に追い詰められているのです。
詳しくはお話できませんが、「自己責任」という範疇を超えているような気がします。

どちらが酷いのかということは、当然のこと、比べようがありませんが、「何にも関わらない」ということも一つ人を傷つける要因になるのだと思います。

この「無関心でいる罪深さ」は「虐待」というある種、特殊なケース以外、私たちの日常生活の中にも当てはまるのではないかと思います。

昨日、NPO法人自立生活サポートセンター・もやいのスタッフの方に来て頂いて、若者を取り巻く貧困の問題や、社会について長時間にわたって議論させてもらいました。
その中で、スタッフの方がおっしゃっていた「社会に対する当事者性」というワードが心に残っています。誰もが政治やこうした社会情勢にどこか他人事のような関わり方をしています。
それは、誰が首相になろうが、これからの日本が良くなる見込みがもてない、その希望のなさから生まれているものかもしれません。

と、同様に、ちくま新書の「友だち地獄~空気を読む世代のサバイバル~」(土井隆義著)には、以下のような記述がありましたので、引用させていただきます。

『(子どものいじめに関連した記述において)無関心層の人びとは、「いじめになど自分は決して加担していない」と言い張ることができる。しかし、そもそも責任(responsibility)が応答(response)に由来するものだとすれば、本来なら積極的に介入すべき状況を目の前にして、傍観者の立場を決め込み、無関心な態度を取り続けること自体が、じつは責任の放棄ともいえる。」

これは、あくまでも子どもメインとした記述ではありますが、これと同様のことが大人の世界に起きていると思います。いえ、むしろ、大人の世界がResponseのない世の中だからこそ、子どもがこうした状況に陥ってしまうのではないでしょうか。

私たちが政治や社会に対して責任を負うためには、様々な施策や社会問題にResponseしていく必要があります。それを放棄することは、ある種「無関心であることの罪深さ」を負うことになるのではないでしょうか。

私自身、会社員の時代は自分の半径50m以内でしか、生活をしていませんでしたので、社会に対する当事者性というものはゼロに等しいものでした。新聞やテレビの報道はどこか別の世界で起きている事象になり、環境問題は東南アジアの森林か、遠い遠い南極の話であり、それが繋がって日本に影響をもたらすことは実感として、あまり持っていませんでした。頭では当然分かっているのですが。

ひどい奴(笑)だと思いますよね。でも、この感覚は社会で生活している人間からすると、ごく当たり前の話になります。

一転、今の生活において、私は社会で生きている人間としての当事者性を持っています。
自分が投げる小さな石がいつか大きな波紋を広げ、誰かの元に届き、大きな動きになっていくのではないかと、ひそかに期待すらしています。

私たちはもっともっと、政治や社会に対してResponseを行い、社会の中で生きる当事者としてのResponsibilityを持つべきなのです。

そのためには、自分の主たる生活圏以外に、コミュニティを持ってみる、というのも良い方法でしょう。
会社と自宅の往復だけ、土日は寝ているだけ(あるいは、疲れ果てて気絶してしまう。)の生活のどこかに趣味を持ったり、何か勉強をする機会を見つける、あるいはボランティア活動をしてみるなど、自分にとって、居心地の良い場所を見つけることがスタートだと思います。

そうしたコミュニティを複数持つことによって、様々な人とのかかわりが生まれ、それが社会を動かす小さな歯車となっていけば、小さな波紋があちこちで生まれ、それが大きなうねりとなって、誰もが社会活動に参加できる「市民性(Citizenship)」を持つことができるのではないかと思います。

人間は自分ひとりでは生きていけない、という話はよく耳にする話ですが、私は「自分一人では自分の姿さえ分からなくなる」という意味だと思います。
他者は自分自身を映し出す鏡となります。と、同時にコミュニティでの自分は他者を移す鏡となります。その中から自己を見出し、生きる価値観を見出していくものでもあると思います。

まずは「家族」というコミュニティから見直してみてはいかがでしょうか。
また、自分自身が今、どういうコミュニティに属しているのか、そしてそのコミュニティの中で自分はどういう存在なのか、逆に自分にとってコミュニティとはどういう存在なのかを観察してみても良いと思います。

私は幸いにも酒が入れば、社会や政治、哲学、ビジネスを語れる小グループが色んなところにいる、というところが私自身の活動を後押しする存在になっていることは、はっきりと言えそうです。
それがなければ、今の私はただただ目の前に座っている利用者を前にしてオロオロとしている、ただのオトナになっていたことでしょう。
コミュニティの力、場の力を私自身が毎日のように痛感しています。

昨日は自分自身の価値観を見直すことのできる良い議論をすることができました。
もやいのTさん、ありがとうございました!
コミュニティの話は昨日の話題を踏まえて、書いてみました。


スポンサーサイト



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。